長野智子“論破文化”に危惧

#ビートたけし#明石家さんま#芳村真理#ニューヨーク#長野智子

エンタメNEWS2024年4月1日11:00 AM

長野智子 (C)ORICON NewS inc.

 フリーアナウンサーの長野智子(61)が、4月から文化放送で新番組『長野智子アップデート』(月~金 後3:30)をスタートさせる。「今日起きたニュースを丁寧に振り返るとともに、最新情報もいち早くアップデート」する番組となるが、長野にとってはおよそ40年越しとなる“リベンジ”がかかっている。

【写真】笑顔でインタビューに応じる長野智子

■ラジオで「ありがとう」を伝える難しさ 横澤彪からの“金言”

――大学在学中には文化放送『ミスDJリクエストパレード』に出演されていました。当時は、どんな感じで放送をされていたのでしょう?

深夜12時半に番組が始まるのですが、基本的にディレクターさんの指示を聞きながら進行して、とにかくリクエストはがきを読んで曲紹介するという担当でした。やっていくうちに「本当に向いてない」と思って、半年でやめてしまったんです。毎回すごく怒られるんですよ。当時、ディレクターさんから言われたことで印象に残っていることがありまして。リクエストをくださったリスナーの方に「どうもありがとう」と伝えるのですが、ディレクターさんによると「君の『ありがとう』は、マイクの向こうにいるリスナーに伝わってない。ありがとうっていう気持ちが、リスナーにきちんと届くしゃべり手はいっぱいいるんだ」と。そういったこともあり、結果的に半年でやめることを決断しました。

――でも、結果的に「人前に出る」アナウンサーという職業に就かれました。

これが本当に運命というか、不思議だなと思うんですけども。大学4年生の時、ラジオの現場ですっごく怒られたディレクターさんと、ばったり会ったんです。そこで、就職の話になりまして「今、教職を目指しているんです」と伝えたら「もったいないな。アナウンサーを受けないの?」って返されまして(笑)。「一番、アナウンサーに向いていると思ったから厳しくしたんだよ」と話してくださって、そういう風に言ってくれるということは、もしかしたら本当にそうなのかもしれないと。あとは、マイクの向こうに気持ちを伝えられるしゃべり手になれなかったという後悔も残っていて。もしかしたら、もう一度そういうことに挑戦できるチャンスなのかなと思って、このタイミングでアナウンサーの試験をやっているところを調べてみたら、フジテレビ1社だけ残っていたんです。ここがダメなら、もうあきらめようと思って受けたところ、なんとフジテレビに採用されました。

――入社当時から「報道」を志望されていたのでしょうか?

志望するなんておこがましい…というくらいの状況でした。私の同期、三宅君や軽部君などがいるのですが、みんなアナウンス研究会などの出身で、私はアナウンスの勉強をまったくしていなかったんです。入社の1ヶ月前からアナウンス研修をやるのですが、みんなと比べてできないことが多くて、研修の先生から「週末私の千葉の家まで来て、練習しましょう」っていうような状況でして、何がやりたいなんて余裕がなかったです。

当時、上司の露木茂さんから新人アナに何をやりたいか聞かれたことがあって、三宅(正治)くんは「僕の出身の広島カープの優勝の試合の実況やりたいです!」と目標が明確ですごいなと聞いていて(笑)。私は、そもそも学校の先生になりたかったから「民放のセサミストリートみたいな番組がやりたいです」とか言って逃げようと思ったら、露木さんから「フジテレビに、そんな番組ないよ」って言われて「ほんとすいません」みたいなスタートでした(笑)。

――フジテレビでは、はじめの頃、何の番組を担当されたのでしょう?

最初は『夜のヒットスタジオ』という歌番組の海外レポーターでした。アーティストの中継をしたり、あとはスタジオで通訳みたいなこともやったのですが、当時は英語学科卒と言っても英語をそれほど喋れなかったので、もうどうしようって…。アワアワしていたら、芳村真理さんから「ちゃんとしなさい!」って生放送で叱られて(苦笑)。

その年の8月12日、日本航空123便墜落事故が起きました。私も取材に行ったり、お手伝いをする中で、報道に携わるみなさんが本当に懸命に事実をつかんで伝えようとする姿を見て「この仕事をやってみたい」という気持ちになりました。それ以来、、上司にも「私、報道をやりたいです」と伝えるようになるんです。その秋から『スーパータイム』という、当時逸見政孝さんがやってらっしゃる夕方のニュースがありまして、私は天気予報の担当になりました。その後、2年目の春から今の『めざましテレビ』枠でキャスターになったんです、先輩のアナウンサーと2人で。これは、希望通りにニュースの道を歩んでいるのかなと思っていたら、天気予報のコーナーがあってそれが「踊る天気予報」っていうコーナーでして…。クロマキーをバックに、私が踊りながら天気予報を毎朝伝えるコーナーだったんです。

その番組を『オレたちひょうきん族』プロデューサーである横澤彪さんが毎朝見てたらしくて、変わったアナウンサーだなと。ぜひひょうきんベストテンに使いたいと指名してくださり、「ひょうきん族」を担当することになりました。最初は本当になじめなくて、大変でした。ニュースを担当している時は、ここがダメだというのがわかるので、それに応じた練習方法があるのですが、『ひょうきん族』の現場では、台本を見ると「楽しいおしゃべり」としか書いてなくて(苦笑)。ディレクターさんから「流れを乱すな、空気を読め」って言われて、そういう世界だったので、どうしていいかわからなくてなって、本当に最初悩んでいたんです。

あまりに悩みすぎて、休日になると新幹線で大阪に行き、劇場で朝から晩までお笑いを見て、メモを取ったりしていました。努力の仕方がわからなくて、当時はそれしかできなかったんですよね。そんな時、横澤さんのところに行って正直に悩みを相談してみたんです。そうしたら、横澤さんが次のような言葉をかけてくれたんです。「たけちゃん(ビートたけし)、さんちゃん(明石家さんま)みたいな天才が世の中にはいて、そういう人たちは壁にぶつかると自分の力で乗り越えていくんだ。でも、長野みたいな一般人は乗り越えようとすると壁から落ちて怪我するから登らないでいい。その代わり、ずっと壁の前で諦めないでウロウロしていなさい。そのうち壁に扉が現れたら、それを開けて扉を開けて向こうに行けばいいから」。その途端に楽になって、なじむことができました。

■転機になった『ザ・スクープ』での日々 新番組で共演したいのは神田伯山?

――バラエティーで成功すると“報道”への思いは薄れてきた?

ひょうきん族を卒業した後、また朝のニュースを担当することができたのですが、結婚をして退社することになりました。当時は忙しすぎたということもありますが、今になって思うと本当に何もわかってなかったなと感じるのですが、うまくバランスとって結婚と仕事といい感じで両立できればいいなと考えていたんです。それでフリーになった直後、ありがたいことにすごくたくさんお仕事いただいたんですよ。ただ自分はどこかに「報道の仕事がしたい」と思いながらバラエティーに出演しているので、他のタレントさんたちが命がけで仕事をしている中でどこか中途半端な気持ちでいる。かといって、報道をやるための努力もしないで日々流されている。そんな自分に嫌気がさしていました。

私が32歳の時、夫のアメリカへの転勤が決まって、戻ってくるのは6年後だということで「戻ってきたら、もう21世紀だよ」と言われた時に、その間自分が日本にいなかったら忘れられてしまうのではないかという危惧もあったのですが、本当にやりたいことに挑戦する最後のチャンスだなと感じて、お仕事を全部やめさせていただいて、アメリカに行って大学院に入りました。

――そして、2000年からテレビ朝日の報道番組『ザ・スクープ』のキャスターを担当されることになり、帰国されます。

お電話をいただいた時に夢がかなったと思って、帰国を決意しました。『ザ・スクープ」はキャスターがただスタジオでニュースを読むのではなく、取材に出る番組だったことは自分にとって本当によかったと思います。

2001年のアメリカ同時多発テロの時、私はテロリストの怒りの原点と言われたパレスチナに入って取材し中継をしたのですが、その時初めて自分の言葉に魂が宿という経験をしました。当時の論調なども考えると、あれはやはり実際に現場に入って取材をしないと伝えられなかったなと思っています。

――長野さんが『ザ・スクープ』を担当されてから、約20年以上経ちました。

当時と比べて、だいぶテレビ局の状況も変わってきましたね。当時は、テレビ局がやっぱりお金があったと感じています。現場に派遣して何日も取材したり、場合によっては1年くらいかけて取材することもあったりして、そんなことって、今はなかなかできないと思うんです。あとは、SNSが発達して、記者が行く前に当事者の方たちが発信しますから、そっちの方を取っていった方が絶対早いという時代の流れの中で、今みたいな形になってきたのかなと。なので、テレビ局が自分たちの伝えたいことを取材して伝えるというより、もうプラットフォームみたいになっていて、視聴者が見たいものを誰か専門家の目を通して伝える…という流れになっているなと感じています。

――そんな中、文化放送で帯番組が始まります。

『ミスDJリクエストパレード』ではできなかった、マイクの向こうに気持ちを伝えることのリベンジマッチじゃないですが、あの時からの宿題に、もう一度挑戦していいよと言われたみたいな気がして、すごくうれしかったです。また、文化放送さんが「大人が聞きたい番組」を志向しているということも知り、それもうれしかったです。私は、自分たちの世代を番組名にかけて「手動アップデート世代」と呼んでいるのですが(笑)。というのも、子どもの頃は黒電話、そこからFAXができて、お弁当箱のような携帯電話、そしてポケベル、さらにiモードができて、95年にwindowsっていうのが出てくる。今はスマホですが、デジタル・ネイティブ世代に対して、自力でOSを更新してきた手動アップデート世代です(笑)。

――裏の時間帯、ニッポン放送さんでは辛坊治郎さんが担当しています。

辛抱さんと私はあまりに個性もアプローチも異なるので、良い意味で意識していないです。今の風潮って、何かが起きた時に「黒か白か」で「はい論破!」みたいな議論ばっかりじゃないですか。『ザ・スクープ』でずっと取材していて、冤罪事件もそうですし、もちろんアメリカ同時多発テロ事件では「アメリカの正義」「中東の正義」がこれほどまでに違うのと感じて。

これまでの取材体験から思うのは、地球上で起こっているほとんどのことは、黒白では判断できないグレーなものなんですね。私はグレーの議論はとても大切だと思っていて、リスナーの皆さんとも迷ったり悩んだりしたいです。

――この番組が始まるまでに、ほかのラジオ番組を聞いたりはされましたか?

今年に入っていろいろな番組を聴きました。最初は参考にと聴いていたんだけど、結局ただ面白いなあと楽しんでしまって。その中でも神田伯山さんのTBSラジオ『問わず語りの神田伯山』はめちゃくちゃおもしろかったです。笑い屋をやられているシゲフジさんは、私の番組が始まる前に同じ枠でやっていた『西川あやの おいでよ!クリエイティ部』に出演されていましたよね。そういったこともあって『問わず語り』でも、私の番組の名前を出してくださったこともあって、それも聴きました(笑)。機会があればお二人とも番組でご一緒できたら嬉しいですね。

■長野智子
1985年株式会社フジテレビジョンアナウンス部に入社。1995年の秋より、夫のアメリカ赴任に伴い渡米。ニューヨーク大学・大学院において「メディア環境学」を専攻し、人間あるいは歴史に対して及ぼすメディアの影響について研究した。1999年5月修士課程を修了。2000年4月より「ザ・スクープ」(テレビ朝日系)のキャスターとなる。「朝まで生テレビ!」「ザ・スクープスペシャル」「サンデーステーション」のキャスターなどを経て、現在は自らも国内外の現場へ取材に出る傍ら、国連UNHCR協会理事も務める。

#ビートたけし#長野智子#ニューヨーク#明石家さんま#芳村真理

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